屋根裏より。

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ブラックミラー:バンダースナッチ -「鏡の国のアリス」「1984」そしてブラックミラーとは何なのかー

 

ブラックミラー最新作「バンダースナッチ」配信開始から早数日、ほとぼりも冷めてきたのでいくつか考察していく。

 

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▼バンダースナッチ及び時代設定について

そもそも「Bandersnatch」とは何なのか。

初出は1871年に発表されたルイス・キャロルの著作「鏡の国のアリス」にて記述されている作中詩「ジャバウォックの詩」である。この著作の中でバンダースナッチは怪物の1種であることが示されるものの、その生態は謎のままでバンダースナッチに対する恐怖を与えるような形容が語られるのみだ。これ以外にも、同者の作品「スナーク狩り」にて「ジャバウォックの詩」からの引用/参照という形でより詳細なバンダースナッチの描写がなされる。だがあくまで「スナーク狩り」はアリスシリーズからはスタンドアローンな作品であり"バンダースナッチの解釈の1つ"とした方が正確である。

 

ここまで来たら推測出来るはずだ。ブラックミラー:バンダースナッチにおけるバンダースナッチとは、キャロルが自分で創作した怪物に対して異なる解釈を与えたように、「複数性」の象徴なのではないだろうか。

 

哲学的に換言すれば「偶有性」の象徴なのかもしれない。つまりある現象やある存在は絶対的なものではなく、過去からの選択/変化の蓄積がもたらした分岐の結末であり他の選択をすれば現在とは全く異なる結果にもなり得る、ということだ。これはまさに「〜バンダースナッチ」内でコリンがステファンに語るゲーム的な発想だ。さらにゲームブックのように選択次第で異なる結末に至るという構造は、主人公が開発するゲームにもそして我々が視聴するこの作品自体にも当てはまる。

 

時代設定の元ネタらしきものはいくつかあるが最も有力なのが、80年代前半に発売された実在のゲームに由来しているという可能性だ。

この頃Imagine Software社がゲームを開発/発表しようとしていたのだがMegagamesというゲーム販売戦略?計画の失敗に起因する赤字によって破産してしまう。実はこの計画にBandersnatchというゲームも含まれていたのだが母会社の破産によりこちらの発表も白紙に。その後複数の開発者によって設立されたPsygnosisによってBandersnatchからBrataccasへ名前を変えて発売されることになる。

これらの歴史から真っ先に連想されるのは、バンダースナッチを発表することになるタッカーソフトウェア社だ。分岐先で破産ルートが存在するようにこの会社がモデルになっているのは明らかだ。

さらに1984年7月9日(このドラマの最初のシーンでの日付)にBandersnatchを開発していたImagine社が潰れていることは示唆的である。

 

1984年という年に注目すると多くの人がジョージ・オーウェルの小説「1984」を思い浮かべるだろう。こちらもドラマ内で分岐する可能性の1つである'政府による監視'とのリンクが認められる(先に上記のゲームの経緯を知りImagine社が潰れた年から1984年を連想→オーウェル1984で描かれたアイデアを一部採用した?)

余談だがここにも入れ子構造が存在する。「バンダースナッチ」のゲーム内ではゲームのプレイヤーが、P.A.C.S.ルートでは政府が、そして「何者だ?」の質問以降は我々視聴者自体が自己相似形を成すように1984ビッグブラザーと対応するのだ。

 

 

▼「鏡の国のアリス」の参照、そして「ブラックミラー」とは何なのか

 

バンダースナッチという名称の元ネタにルイス・キャロルの物語があることは前述の通りだが、まだこのドラマにはキャロルの著作を参照していると思しき描写が複数ある。

 

まずウサギだ。「バンダースナッチ」では幼い主人公が気に入っていたウサギの人形が隠されたことがキッカケで母親が死亡したという彼のトラウマが描かれる。このウサギを回収することが主人公の事故エンドへのトリガーとなることと、「不思議の国のアリス」で主人公のアリスが服を着たウサギを奇妙に思い追いかける所から物語が始まることは符号してはいないだろうか?

さらに「バンダースナッチ」でいくつかの分岐を経た上で主人公は過去に行くことになるのだが、その手段が鏡なのである。「鏡の国のアリス」にてアリスが現実世界から移動する際に鏡を通過したことを参照しているのは明らかだろう。

(他にも過去のステファンが持っていたウサギの人形が服を着ていたり、P.A.C.S.ルートからのトラウマ形成シーンで真っ赤な照明に照らされた母親から赤の女王を連想したりなどなど、それらしい繋がりは無数にある。これ以上は陰謀論めいてくるので避ける。)

 

このように改めて振り返ると「バンダースナッチ」内にはアリスシリーズとの関連を指す物がたくさんあるように思える。だがここで1つの疑問が湧いてくる。Bandersnatchのゲームや1984年という背景は恐らく着想を得た地点であるためそれらのモチーフが現れるのは当然。ではなぜアリスシリーズを元ネタとして採り入れたのか?

 

」である。

なぜ鏡なのかを説明する前に、なぜこのドラマは「ブラックミラー」という名前なのかを敢えて考えたい。

 

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黒い鏡とは何だろうか?真っ黒い鏡?答えは単純、液晶画面/スクリーンだ。

ブラックミラーのタイトルシークエンスを思い出そう。まず黒い画面にタイトルロゴが現れ、ガラスが割れるようにロゴにヒビが入る。

 

この演出が意図する所は「鏡のようで鏡ではない何か」を我々が見ているということだろう。視聴者は、スクリーンを暗転させることで擬似的かつ一時的に生成された'鏡'つまり暗い液晶に映る自分と対峙した後に物語の世界へと移動していく。さらにヒビが入るエフェクトの影響でー単に鏡を通過するわけではなくー暗い上にヒビが入って正確な似姿を映すことが出来ない歪んだ世界へと没入していくことが示唆されているのだ。ここで重要なのはヒビが入ったスクリーンは鏡ではない点だ。

普通の鏡は現実と正反対であべこべな、一種のフィクションを映し出す。しかしーヒビ割れたースクリーンは画面が暗い上にヒビが入っているせいで、現実と画面に映る歪な世界の区別が難しくなる。確かにこの世界ではないのだが、恐らく数年/数十年程度の未来でありそこで巻き起こる問題は現在のそれの延長線上にあるのだ。

歪んだ鏡は外的なものだけでなく内的な、精神的なものも映す。現在は表面化することはないもののテクノロジーの発達した影響で浮上してくる、人間の内なる欲望や暴力性がそれだ。

 

このように捉えるとアリスネタの由縁がはっきりしてくる。

アリスシリーズ2作目の「鏡の国のアリス」では、主人公は(普通の)鏡を通り抜けることで現実から虚構へと移動する。ここで鏡は現実と明確な虚構を媒介する役目を果たす。つまり番組製作当初から鏡⇒スクリーンという構想が存在し(「1500万メリット」の個室での一面スクリーンなど初期作品からスクリーンを重視する描写が散見されることも鏡の役割を液晶画面に担わせている傍証か?)、「バンダースナッチ」ではゲームのBandersnatchとキャロルの怪物バンダースナッチが繋がった結果としてアリスシリーズのネタがいくつも描かれたのではなかろうか。

 

 

だいぶ脱線したが以上の議論をまとめると、今回のバンダースナッチがアリスシリーズの要素を採り入れたのは【現実と虚構を接続する装置としての鏡が重要だった、そしてその視点はひょっとしたらブラックミラー製作開始当初から継続していて今回たまたまそれが目に見える形で結実した】からであるはず。

 

 

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▼隠匿された第4階層

 

最後にオマケ。

「バンダースナッチ」を追うと主人公は選択の結果により、鏡を通して過去へ戻り分岐を変更して死亡するというエンドが存在する。

だがここに妙な倒錯がある。先ほどの「鏡≠スクリーン」の概念を用いて解釈すれば、鏡を通過した先の世界は完全な虚構で現実に能動的に影響を及ぼすはずがない。物語に即して言えば、主人公が鏡の先で分岐を変更してもそこはあくまで虚構,夢であり現実に干渉するはずがはい。だが主人公は虚構世界内で過去の自分が死亡したことで現実世界の今の自分も死亡してしまう。一見おかしなこの論理だが、視聴者の存在を考えれば整合性がとれる。つまり'本当の意味で'選択しているのは視聴者であり、その視聴者が目にしているのはブラックミラー/スクリーンだ。したがってメタ視点からみれば主人公の世界自体が虚構であり、その法則がある種上書きされていてるのだ。

 

そしてもう1つ忘れてはいけないことは、視聴者が分岐を再選択することの出来る画面にある。物語内での分岐選択は画面下側に選択肢が表示されるのみだが、再選択画面に行くと目の前に1つもしくは2つの旧式のコンピュータのモニターに分岐シーンが投影されている

これは意味深である。本来、視聴者は各自が持つ端末のスクリーンを通過して作品世界に入る。だが分岐まで戻ることの出来る選択画面ではさらに新たなスクリーンをもう1つ通過しなければならなくなる。スクリーンの向こう側とは、物語世界もしくは操作される世界だ。つまりスクリーンを新たに通過することで我々視聴者自体も「バンダースナッチ」を操作する存在から「バンダースナッチ」に操作される存在へと、鮮やかかつ恐怖の転回が生まれる。

コリンの台詞が教えてくれるように、一見自分が選択しているように見えても実はそれは仕組まれた物で、上位の第三者が選んだ選択である。思い返してみよう。

 

果たして我々視聴者は戻る分岐先を自由に選択出来ただろうか?我々が「選択しない」ことを選んでも自動的に「選択」されてはいなかっただろうか?

 

そう、実は「バンダースナッチ」には巧妙に隠匿されたもう1つの階層がある。最下部に位置するのが最初にゲームブックを作成したJFD氏で、その後にバンダースナッチに囚われてしまう主人公及び未来のクリエイターが位置する。そのさらに上に「バンダースナッチ」を鑑賞/プレイする我々視聴者がいるのだが、実はそのさらに上に'視聴者が見ていない展開に誘導する分岐ゲームとしてのバンダースナッチ'が存在する

さらに痛快なのはコリンの言う「俺は選択肢を与えたまでだ。」という言葉だ。この台詞自体はコリンの家に行った時に薬物を服用するか否かのシーンのものだが、あの分岐再選択画面のことをも同時に示唆していたのではないのだろうか?確かにあの画面ではそのままクレジットへ飛べるようになっており、その気になれば'ゲーム'から抜けることも出来る。だが最終的に我々は自分の意志でゲームに組み込まれてしまうのである。

 

もしかすると、真の意味での「Bandersnatch」は視聴者があの画面で他の分岐を選び直す所から始まるのかもしれない。ただし我々は視聴者やプレイヤーとして、ではなくあくまでキャラクターとして。